2008年8月4日月曜日

言葉の師

最近、周囲が言語崩壊してる。
夕食の際、弊社代表の飯田と話していたときに出てきた話題。

それは例えば、2ch語の日常化だったり、意味のわからない略語だったり。
特定のコミュニティ内でのみ通じる単語や、必要のない英語化もある。

僕自身は、“尊敬”という言葉について考えてみた文系と理系のようなエントリを書いていることからもわかるように、言葉というものにこだわりがあるし、自分の口から発せられる以上はそれなりの責任とプライドを持っている。
そんな僕なので、言語崩壊していることを忌々しい事態だとは思うものの、自分自身がそれに影響を受けることはないだろうと思っている。

なぜだろう、と考えてみた。
結論は簡単。これまで周りに、言葉を大切にする人が多かったのだ。

高専時代に付き合っていた彼女は、哲学を志していて、近代哲学(デカルトとかカントとかフッサールとかが活躍した頃)についてとても深く勉強していた。特に、デカルトの“我思う、ゆえに我あり”という言葉をとても愛していた(ように感じた)。

高専時代のとある友達は、日本を愛する人で、意味のない英語化をとても嫌っていた。横文字での会話はなんとなくかっこよく感じるし、さも自分が外資系企業で働いているかのような満足感にひたれるが、ただそれだけ。日本人とコミュニケーションするのなら、日本語のほうがわかりやすいに決まっているというのが彼の意見だったのだろう。
それに、彼は大分県の中でもかなり小規模な村の出身だが、地元なまりを恥じたりせず、誇りを持っているようにさえ感じた。上京して1週間もたたないうちに標準語で話すようになった僕とは対極にあるこだわりの持ち主だ。

19歳の頃に参加したインターンシップのメンバーも言葉を大切にする人が多かった。“ウェスト飲み”と称して、西日本のインターン参加者が集結する企画がいくどとなく開催されたが、その夜はたいてい夜を徹しての熱い議論だった。進路、人生、恋愛など内容は多岐にわたるが、共通していることはそこでやりとりされる言葉の重さ。ウェスト飲みが僕を成長させてくれたことは間違いないと思う。

東京に来てから出会った友人にも言葉を大切にする人がいる。その友達とはじめて話したときに言っていたこと、今でも覚えている。
「“おもう”っていう言葉も、漢字で書くと“思う”と“想う”があって意味が違うんだよね。わざわざ違う漢字が存在してるってことは、それには何か意味があるような気がするんだよ。今の僕にはわからないけどね。」

彼らは僕にとって、まさに“言葉の師”だ。
僕自身は、哲学を志しているわけではないし、大分弁に誇りを持っているわけでもないし、横文字ワードも普通に使うけど、こういう人たちと一緒にいる時間が長かったおかげで、僕なりの言葉へのこだわりというのが確立できたように思う。

よい環境にめぐまれたものだ。

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